なんとなく「物書きになりたいなあ」という想いがある。
別に独立してどうこう、とか言うんじゃなくて、単に物を書きたいという想い。最終的には物書いて飲み代を確保出来るくらいになったらいいなあとか。いや、ツケを払う時に原稿を渡して「これを○○社編集部の何々さんに持っていって」みたいなのでもいい。
そんなことを頭の片隅におきながら、こうしてブログを書いてはいるけれど(というかアウトプットする場としてブログしかないわけだけど)、プロじゃない私でも「書けない時」「書きたくない時」は当然ある。
インプットしないとアウトプットなんてできやしない、なんて思って本を手に取ったりするんだけど活字を見ると数十秒で就寝できるというある意味超ハイスペックな仕様を備えているので積ん読が増えたり、図書館から借りてきても結局読まずに食べたり。もとい返したり。
そういう風になった時、私は故・ナンシー関のコラムを読む。
亡くなって11年が経つんだねえ。二週間くらい前は彼女の命日だった。
もう絶版になっちゃったけどシールブックは今でも使わずに大事に持ってる
好きな人の何かって真似しちゃう時ってある。
例えば書く文字の形とか、文体とか。
彼女の文体は好き。
もう少し生きていてくれればブログをやっていただろうから、本当に残念ではある(ホームページでコラムは不定期更新はしてた)。
彼女のコラムを読んでるとインプットの量がとんでもないということを感じさせる。
テレビ見すぎだろという感じ。まあ家にはテレビデッキが何台もあって、録画しまくってそれを見て…。ということをどこかに書いていた。もはや手動全番組録画的な。
当然物を書くセンスももちろん必要だけど、やっぱりインプットがないと書く物も書けないよなあと。
彼女のコラムはそれを思い出させてくれる。
というか今年こんな本出てたのか。チェックしないと。この本にも多分出てくるが、彼女はヤワラちゃんの政界進出を見事「予言」している。
文体、インプットという観点でもう一人好きな人がいる。
空中キャンプの伊藤聡さん。
映画とか本とか音楽についてブログに書いている。最近ではcakesで連載ももっていたりする。
文章の端々にでてくる表記・表現が好きだし、何より私にクボタタケシ(DJ)の存在を教えてくれた人(面識はない)。
「超」を「ちょう」って書くところとか、「○○だよねー」の「よねー」とか。そんな端々に出てくるやつが好き。
ブログを常体(で・ある)で書いているのも、この二人がすきだからかもしれない。
新書も一冊書いているので空中キャンプが気に入ったら是非読んでみるといい。
あと、この人の文章を読むと無性に自分も書きたくなる、という人で最近アツいのは小鳥ピヨピヨの清田いちるさん。
その筋界隈では結構話題になった「我が名は魔性」のことについては後日書こうかなと思っているが、Kindle版で99円で買った「アボカドの弾丸」がすごくよかった。
魔性よりもアボカドの方が発売は先だったのだけど、魔性→アボカドの順で読んだのは逆に良かったのかも。人はこういう風に成長するものだと。
ブログで書いた短編+未発表作品という形式はなかなかいいなあとも思った。
読んでて楽しいもの、何か書きたくなってきたと思わせるもの(読んでああ、私もやらなきゃなあとか思わせるものではなく)があるというのは幸せなことだ。
でも書くのが好き、何か書きたくなってきたとしても、「別に好きじゃないことを書く」というスタイルにしてしまっては、きっと書くこと自体が嫌いになる。重荷になる。
一言で「愚直に書くしかない」とは言いながらも、やっぱり好きなことを書かないとやめちゃうよなあと。
だからこれからは「愚直に書くしかない。好きなコトを。」
こういうブログ(アウトプット)まわりの葛藤はいつまで続くんだろう笑。いつまでも続くんだろうなあ。君といつまでも。
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