「好運なツアー」

昨日、あるアーティストのライブに行ってきた。

アンコールで彼は歌ではなく、おもむろに言葉を紡ぎ出した。

ぼくたちは「好運なツアー」のまっただ中にいるのだと仮定してみる。

生きていて仕事や趣味に熱中したり、
鼻唄を歌ったり、
スポーツで汗を流したり、
よく晴れた日に川辺の道を散歩したり、
音楽に合わせて踊ってみたり、
友達とお酒を飲みに行ったり、
恋人と海を眺めて過ごしたり、
いろんな気持ちになったり、
誰かの気持ちを感じたり。

そういうことはたぶん奇跡的なことで、
とても好運なことだ。

ところが日常生活を送っていると、
なかなかその好運に気付くことができない。
分けもなく腹を立てていたり、
人の悪いところばかり目についたり、
自分のネガティブなことばかり気付いたり、
あきらめて、めんどくさいことはなるべくやらないようにして、なんとなく楽なほうに流れていってたりする。

ぼくもそういうところがいっぱいある。
人間ってたぶんそういう生き物だ。

身近なところに突然自分の死が現れると、
初めて生きていることの好運に気付く。
そしてその好運を生かそうと行動し始めたりする可能性だってある。
黒澤明の「生きる」は、そんな映画だった。

命があって身体が少しでも動けばそこからなんでも始められるではないか。
人は誰も「好運なツアー」の最中なのだと仮定してみる。
走る車のウインドウを開ければ風を感じることができる。

私はたぶん、いや間違いなくこれまでに色々と道を間違えてきたのだと思う。家族を幸せにすることは出来なかったし、今でも色んな人に迷惑をかけながら生きている。

ただ、自分が道を間違えてきたからこそのかけがえのない、数え切れない出会いが間違いなくあった。

道を間違えたからこそ出会えた、と言ってしまうと大変失礼に聞こえてしまうがそうではない。出会えた素晴らしい人々には、過去に「私が正しいと思い込んでいた道」を進んでいたらきっと出会えていなかったということだ。

私を見守ってくれる家族・友人がいる。
私に声をかけてくれ、迎え入れてくれる友・先輩がいる。
人生の師匠・先輩と私淑する人たちがいる。
三十路も佳境なヒゲメガネオヤジをいじってくれる若者達がいる。
いいね!とか+1してくれる人たちがいる。

どんな状況であれ、それが「好運なツアー」であることは間違いない。ただそれがその状況では当たり前で、好運であることに気がつかないだけだ。

でも私はなんとなく気付いてきた。この人々との出会いは「好運」なのであると。

ある意味での人生の節目を経験してから半年ちょい。同じようにライブ会場でスポットライトに浮かび上がるアーティストを眺めていた半年ちょい前の自分と比べてどうだ?たぶん何も成長していない。あごひげともみあげがちょっとつながるようになったくらいと少しだけ呑みに行く回数が減ったくらいだ。

でも私は生きている。そこに何かしら人との出会いが待っているからだろう。私が持っていないモノを持っている人たちとの出会い、再会が。ロクにブログも書かずに、人とリアルで出会い、Twitter/Facebookなどで人に絡み、言いたいことを言ってるのはそういうことなのだと。出会える、知り合えるときになにか行動しておかないと、というのは過去の自分の経験も生きているのかもしれない。

素晴らしいつながりのチャンスがあるのがわかっているのにその場に居合わせることが出来ない環境、事情。失うモノは色々とあったけど、その代わりに私は色々なことに思い切って(以前の私比)飛び込むという勢いを身につけた気がする。そのおかげで色々なつながりをえることができた。色々でかけがえのないつながりを。

私はこれからも「好運なツアー」のまっただ中にいるのだと仮定し続ける。

なお、「あるアーティスト」というのはオリジナル・ラブこと田島貴男。
来週発売のニューアルバムにはこのエントリーのタイトルである「好運なツアー」、スチャダラパーをゲストに迎えた「カミングスーン」(昨日ライブに乱入してちょう盛り上がった)、3/11の震災の後に書き上げたグッとくる曲「あたらしいふつう」などを収録。

というわけで、最近ブログ更新頻度が落ちている理由を書いてみた。皆さんありがとう。これからもよろしく。

あとがき
勢いに任せて書いたので文脈とかはむちゃくちゃです多分。
でも何か書きたかったので…。

コメント

  1. […] 「好運なツアー」 – Tanakamp的ヒトコト。 Read it Laterで何度も読み返す。 […]

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