[エッセイ]僕(ら)が旅に出る理由

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僕は常に「旅に出たい」という想いを抱いている。特にヨーロッパに行くのが好きだ。

友が旅に出たり、テレビやネットでヨーロッパの街並みを見たりすると、その想いは私の中で更に強くなる。

なぜ僕は旅に出たくなるんだろう?

理由なんてないさ。そうかもしれない。いや、きっとそうだ。

でも強いて言えば、本当の意味で「自分と向き合えるから」「自分を見直せるから」ということなんだろうなあと思っている。




本当の自分をどう定義するかっていうのはまた難しい問題なのだけれども、旅は「本当の自分だと思っている自分」が「本質的に本当の自分」ではない、ということに気づく可能性を与えてくれるものだと思っている。

「日常」の自分には社会的に属しているものがいくつもあって(雇用関係とかコミュニティとか)、十中八九自分の想いを母国語で伝えることができて、帰る家があって、場合によっては家族やパートナーがいる(愛しているかどうかはまた別の話だが)。

旅に出るともちろんその日常がなくなる。現地の人から見れば「一介の旅人」である。

司会ブロガーだとか、tumblr本書いたとか、バツイチだとか、日本ではたまに明け方まで呑み歩いて電車無くして歩いて帰ってるとか、そんなレッテルは、ない。

身ぐるみをはがされる感じ。(僕らが思い、認識しているところの)日常を構成している社会的関係だとか、ルーティンワークだとか、そういったものは排除される。そぎ落とされる。それが旅なのだ。少なくとも僕にとっては。

旅に出ていると、まれに「日常」を取り戻したくなる時があったりもする。和食(あるいはお馴染みのファーストフード)が食べたくなったり、いつも聞いている音楽が聞きたくなったり、あるいは日本にいる誰かに電話したくなったり。

そんな「非日常」の状況の中で、ホテルのベッドで寝っ転がったり公園のベンチにすわってボーッとしていると「自分って何なんだろうな」とふと考えたりする。

いつもの僕が切り離された状況でも世界はまわっている(ように見えるかもしれない)し、もしかしたらこのまま僕は非日常のままでもいいんじゃないかもしれない、とか。

でも突き詰めていくとおそらく僕は誰かに必要とされていること、僕も誰かを必要としているということが見えてくる、はず。「日常」の自分がいる環境下では想いが及ばないところに想いを巡らせることができる。旅はそんな可能性を与えてくれるものなのだと思っている。

僕の存在が誰かを生かし、誰かの存在が僕を生かしてくれている、そのことにより深く想いを馳せることができる。

「自分を見直す」「自分探し」なんていう安易な言葉では表現したくないのだけれど、まわりの人から見れば上に書いたような想いは結局そういう風にしか見えないのかもしれない。

それでも僕は常に「旅に出たい」という想いを抱きつづけている。

ぼくらが旅に出る理由/安藤裕子
ぼくらが旅に出る理由 - 大人のまじめなカバーシリーズ

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